昭和43年5月22日 朝の御理解
もう二十年も前の話でした。ある時あの、北野の教会の荒巻先生と一緒に御本部参拝をしたことがございました。あちらの、御信者さん、近所の写真屋さんが一緒に同道されました。それであちらで、お届けが終わりましてから、金光様三代金光様ですね。あの、(?)先生からお届けがありましてから、「金光様のお写真をとらせて頂きたいと思います」というお届けがあったのです。そしたら金光様がね、こんな風に仰いました。「はい楽です」と仰いました。「はいいいですよ」とか、「さあどうぞ」とか、言う風ではなくてです、「はい楽です」こう仰る。その時のお写真が私のほうにまだございますが、金光様にお願いをしてお写真を撮らせて頂く。写真を写させて頂くとこう。ね、その事に対してからどういう風に仰るだろうかと私思うたら、「はい楽です」と。本当にそれは大変深い味わいのある、お言葉であると思います。ね。お互い。信心をさせて頂いてから目指すおかげというのはどこかと言うと、はい楽ですといえることなんです。
いわゆる楽なおかげなんです。ね。少しはましになりました。少しは楽になりました。とこういうようにもうしますですね。金光様の仰るその、はい楽ですと仰るのはどういうような、御内容を持たれたところのものであろうかと。
改めてその事を思います。あなた方が写真をお撮りになっても一つも私には障りません。そういう御内容でなかろうかと思うのです。その証拠になら、撮ってくださいというてこう、ポーズを作られるわけでもない。ただ当たり前に御用をなさっておられる。そのお姿を写真に頂かせて頂いたわけなんですね。ある時あの、金光様の日常のご様子を何とかという、映画に、映画会社の見えましてね、映画に撮ったことがあるのです。ところがその、自分がそのそういう映画にとられておるという事、写真に撮られておるという事が全然、意識をなさらない。もう当たり前になさっておられる。撮りおわってから写真技師が言うたそうです。「もう金光様は名優だ」と言うておられる。なるほどその、(?)思いますね。よう撮ってもらわなならんとか、よい姿形をしなければならないとか、言うようなものが何にもおありにならない。
私達がね、ぎりぎりのところ願わせて頂くところ、また、求めさせて頂くところはそういうような、境地を目指させてもらう信心になりたいとこう思うのです。そこでそういうどんな場合でも楽というですね、人が乞食じゃと言うても、泥棒じゃと言うても腹を立てな。神が見ておると。ね。神が顔を洗うてやるとも仰せられる。私がいつ乞食をしたか、私がいつ泥棒をしたかとつかっかって行くこともいらぬ。というて言われたからというて本当を言うたら、情けないとも腹が立つとも思わない、神様が見ておいでなのだから、神様がご承知なのだから、と言う事になるわけなんですけれども、私ともは神様から(?)腹はたつけれどもお腹はたてるな。もろうて歩かなければ乞食ではない。人の物を取らなければ泥棒ではない。どんなに間違うた事を言われても腹を立てるなと、まあ辛抱しておけと。神が顔を洗うてやる。神が顔を洗うてもらうまで顔を立ててもらうまではやはり、腹が立っておる。情けないと思う。ね。それが普通なんでしょうけれども、そして泥棒だと言われても乞食だと言われても、神様が見ておいでだから、神様がご承知だからという事になったらですね、腹も立たんし情けないと言う事も無かろうとこう思うですね。
いかにその神様を知っておらなければならないかという事です。
真の道の心得、いわゆる御神誡にこうございます。「真の道におりながら真の道を踏まぬ事」「口に真を語りつつ、心に真のなき事」と。真の道、いうならこういう有り難い信心の道におりながら、信心の道を守らない、踏まないという事。ね。私共がね、心に楽です、または、神様が見ておいでだから、聞いておいでだからとその事を信じ、その事を思うておれれると言う事はね、私共が信心の道にあって、しかもその信心によって頂くところの御教えを日々踏み行うていきよると言う事、ね、だから、これが踏まぬことになる。真の道を、信心をしながら教えをいっちょも守らない、これではですね、何時までたっても楽にはなりませんです。ね。私共の願うところ、私共の目指すところはです、どんな場合でも「はい楽です」と言えれるようなそういう境地を目指させてもらう。
ね、いうならどんな場合でも情けないと思わない、腹をたてんで済む、一つも心に障らない。ね、そういう皆さんおかげをですね目指させてもらう信心になるためにどうぞ教えを頂き、教えを踏み行わせて頂けれる日常生活がなからなければならんと同時に、ね、「口に真を語りつつ心に真のなき事」ね、(?)中には障らんようにしておっても、心の中は穏やかではない。まあ馬鹿を言われても平気な顔をしておっても心では穏やかではない。ね。泥棒だと言われても、じっと、自分は泥棒をしておらんからと思うて辛抱しておってもです、心は穏やかではないです。
乞食だと言われたら、心には何かといいながら、まあ、形の上にはまあその何でもない風にしておってもそれは装うておるだけ。そういうような場合をですね厳密に自分と言うものを見極めさせてもらうと口に真を語りつつ心に真のなき事と、口にはなるほど、真の事をいいよるけれども心に真のない自分である事を分からせてもらう。口に真を語りつつ心に真のなき事。心に真のあるいわば、私である時にですね、楽なおかげが頂かれるのではないかと思う。
信心はそういう例えばこの事にですね取り組む以外にないのです。そこでですね、私は思うのですね、その楽ですと仰せられる、全然障りません、誰が何というてもどうしておっても触りません。心に障ることがない。ね。それはもう大変な私はこれはまあ境地だと思いますけれどもやはり、私共がですね信心はわが心が神に向かうのを信心というのじゃと仰る本当に生神様を目指しての信心であってみればです、やはりそういう境地を目指しての日々でなからなければならん。金光様のご信心は。
そこでこの、楽と言う字を見てみますとね、楽と言う字は合楽の楽という字ですよ、中が白と書いてある。白い、赤い白いの白と。横にこう糸偏が両方に書いてある。下が木と言う字が書いてある。いうなら、白の木、白の心に心にね、いうなら我情我欲がないと言う事。あーなからなければならん、こうなかならければならんと。あーして欲しいこうして欲しいというものが何にもないという事。
心が白紙であると言う事。木が白であると言う事。しかもね、いうなら、無欲淡々としておれれるということ。だからそれだけではいけん。ね。そういう心でいつも神様につながっておらなければならない。天地の親神様と通うておらなければならない。世の中には信心がなくても非常に無欲な人があります。ね。淡々とした人があります。けれどもですね、神様に通うていない。それではだめだ。神様といつもこうつながりがなければならない。つながっておる印だというものがいつも、自分の心の中に感じられなければだめ。昨夜、もう11時になりましたから、皆さん帰られて久富先生と(?)帰られますからここまで、送ってきました。丁度、末永さんと光昭と二人で、シャツ一枚、パンツ一枚になってから、その、昨日あの、手洗いが少し漏っておりましたから、中に、セメンを流してもらいました。中の小石を全部だしましてね、もう、セメンが大体固まりましたから入れてもよかろうと私申しましたから、もう夕べの内にしとこうというわけですね。
それをその、(?)一つずつ洗わないかん。もうやっぱ、もうどろどろになっておったですね。もう、シャツ一枚になってから裸足になってから洗おうとしておるところでございました。それから、私も袴を脱いでから、(?)石を洗うておるのを手伝いました。久富先生も重雄さんも帰るわけにはいかんですね。ですから、私共もいっちょおかげ頂こうち、いやあなた達は帰って下さいち言うたけれども、結局最後までおって御用を頂いて帰られた。きれいにもう、どろどろしておる石が。それを綺麗に洗ってですね。もうそうとう入っておるあの中に。その、石を洗って、入り口を全部綺麗に、今日は綺麗になっとったでしょう。終わりましてから、帰りがけに繁雄さんがこういう事を言われるのですよね。帰りがけに。私はそれを信じます。そんなことがあるじゃろうかと。思う人があるかもしれませんけれども、私はそれを信じます。「先生今夜方、出掛けにですね、お参りしがけにですね、心の中に長靴を履いていけ長靴を履いていけとしきりにそんな感じがしたと」だからその、長靴をですね手に取る所まえ取ったっち。けれども、こげなお天気なのに長靴もなかろうと思うて靴を履いてきましたといわれるのですよ。
信心をさせて頂いて、段々神様と繋がりが出来ますというか、そういうことなんです。ね。だからあそこんところをちょっと、人情を、私の思いよることは、もうそのまま神様が思いござる事。ね。私が言いござることはそのまま神様が言いござる事と、それを確信持てて言えたり思えたりするところまで信心を頂かなければいかんです。
そうおかげが頂かれるです。私共それを思うことがあります。今のは神様が言うてござさりよるとじゃなあとこう思うことがあります。はあ、神様が思わせてくださりよるとじゃなあと思うことがあります。ところがです、私共がね、めぐりが言う、めぐりが思いよる。汚いことなんか思いよる時にはめぐりが思いよる、自分が思いよるとじゃない、この、わが心なる神様が思いござるのじゃない。これについておるめぐりが汚いことやら、根性の悪い事やらを思いよる。
ね。人を傷つけるようなことを言うときにはです、自分が言いよるとじゃない。自分に付いておるところのそのめぐりが根性の悪い事やら汚いことやらをいいよると。ね。ですから段々これが正確になっていくに従って、めぐりのお取り払いを頂くに従って、思って折ることがそのまま神様が思いござる事と思えれる、それが信じれれるようになってくる。繁雄さんの場合なんかでも、あそこんところをもういっちょ人間心を使わずに、夕べの御理解は人間心を使うてはならないというような御理解でしたがね、やはりその、人間心というかめぐりの心が言う足り思う足りしておる。それがちょっと邪魔をしたわけですね。だからつい、靴を履いておる。今日、いうならばですね、長靴を履いていけば裸足にならんで済んだとこうわけなんです。今日は、今夜帰りがけにはお前御用があるぞと、裸足になって、洗わなん御用があるぞと。今日は長靴を履いて行けよと神様が言うてござるのだけれども、聞きとっておるのだけれども、そこんところでちょっと人情で流されてしまっておる。ね。それがねたったそれだけの事ですけれども、例えばこれが、自分が求めてやまないおかげの場合なんかは、もう、そこで、おかげが流れておるのですからね。靴を履くとか履かないとかそれだけのことではないでしょうが。ね。私共が白、いわゆる白紙の心、ね、白の木、白紙の心。ね。我情我欲でない心。しかもその心にです、神様と絶えず交流しておる繋がっておるものが、なからなければならない。そういう心を持って楽というのです。ね。金光様はいつもそういう状態である。どうでもよいという事なんだ。あなた方が写真を撮ってくださる。とか、撮るならばさあ、写しなさいというてポーズをお作りなるわけでもない。少しよく写してくださいと言うわけでもない。
ただ、平生、当たり前のようにただ、御用をなさっておられる。それを写させていただくだけ。ですから金光様はい楽ですとこう仰る。はいどうぞとか、ね、良いですよとかちょっと待って下さい、着物を着替えてきますからとも仰らないわけなんです。
ね。はい楽です言えれるそういう私は心の状態を目指して、信心をさせてもらう。それにはです、真に道におって真の道を踏まぬというようなことでは、いつも心は不安の状態である。ね。口に真を語りながら心に真がないというような事では、ね、いつも安心は頂けない。それこそ、泥棒と言われれば腹がたち、乞食じゃといわれれば情けない。そこのところをですね、お互い、目指す信心。そういう信心が真の信心を目指すと言う事はそういう事ではなかろうかと思う。
ね。簡単に真の信心ともうしますけれども、真の信心の目指しというものはどこにあるか。どんな場合でもはい楽ですと言えれるおかげ。そこで、私共がそこまで行けれる過程においてです、ね、まあ、言うならば泥棒と言われたり乞食じゃと言われたりといったような、また痛い痒いのある時でもです、ね、痛い、痒い、腹がたつ、情けない。けれども、私有り難いというそこだけは目指さなければならないと思うですね。
痛うございますと。けれども有り難い。ね。痛いことがどうして有り難かじゃろうかと、信心のない人は思うでしょうね。けれども、信心を分からせてもらいよりますとです、神様をお心をいつも聞きよる。神様の心をいつも分からせてもらいよる。ね。神愛をいつも分からせてもらいよる。神様が本当なものにいうならばはい楽ですといえれるような心の状態にして下さる事のために、神様がこういう痛い思いをさせたり痒い思いをさせたり、腹の立つ思いや、情けない思いをさせてからまで、私は限りなく立派なものにして下さろうという神愛に触れる時に、その神愛を思う時に痛うございます。ね、痛うございますけれども、神様のお心に触れると有り難いというここのところまではお互いが頂きたいと、ね。そういう繰り返しをね、させて頂く稽古をさせて頂きながらです、ね、真の道におるのでございますから、真の道を踏ませて頂こうと言う事は、日々こうやって教えを頂いておるのでございますから、その教えを本気で頂かせて頂こうという信心。
口に真を語りつつ心に真のなき事といったような、不正な事のないように、いわゆる実意丁寧でありたいと言う願いをいつも、心にかけさせて頂いての信心の状態がです、そうなからなければならん。
そこに我情がだんだんとれていき、我欲が外れていき、心が白の状態にならせてもらう。いよいよ、神様との交流。神様とは、いつも繁雄さんじゃないけれども、繁雄さんにだけ働きかけておるのじゃない。みんなの上にいつも、これは信心があってもなかっても、すっと、それこそ降る様に神様の思いというものは一人一人の上に思いがかけられておるのですよ。例えばね、災難なんか起こってくる場合なんかはね、絶対、もう、災難がぽかっと目の前で起こることはないです。災難が起きる前には必ず神様がお知らせを下さりよりますです。信心があってもなかっても絶対。いうなら、夢の(?)もう絶対そのありよるとです。それを、私共の神様とのその、繋がりを受けきらないのです。またはその、我情我欲がそれを押しのけてしまうわけですね。例えば雨が降るといえば何とはなしに暖かくなってくるでしょうが。はあ、これは妙な温さじゃから雨が降るかんしれんじゃろうか、もうぽかっと雨が降ることは絶対にない。これは天地の法則です。決まりです。人間の上にもそうです。ぽかっと災難がその、降って湧くようにあるはずがないです。その前にはこういう事があるぞ、だからお道の信心をさせてもらいよると、降っても濡れんですむという事はそういう事なんです。ね。ぽかっとおかげが降ることはないです。ね。例えばこの頃北海道に大地震がありましたけれども、ああいう事がある前には必ず前知らせがあるです。それを、凡夫であるゆえにですそれを頂きとめきらん。ね。大風の前には静かに静かになるでしょうが。嵐の前の静けさといったようなものが必ずあるです。人間の上に起きてくることは必ずそうなんです。ですから、神様との交流がいつもありよるのだけれども、それを、受け止め切らん。それを受けとめる心というものは、いわゆる白い心。
ね、我情我欲のない心なんだ。ね。さあ今日は雨が降るから、途中で雨が降るから、ちょっと今日は長靴を履いていけよと。今日は合楽に行ったら水かかりの御用があるから、長靴を履いていけよとこう仰っておられるのですよ。いうなら。ね。ですからそれを、キャッチできれるというか、受けとめれるという心の為にもね、私共がいかにいわば、我情我欲を外した心でおらなければならないかということが分かります。
しかもそれが神様にこう絶えず、こう、通うておる。そういう状態を私は今日は楽と説きました。ね.金光様がこれは二十年も前に写真を写させてくださいとお願いした時に、「はい楽です」と仰ったそのご内容をです、今改めて思うてみるんです。なるほど、金光様は生神様でおありになったのだなあと言う事。
だからそれは金光様の専売特許ではない、お互いも頂けれるのだと。だからそれを目指させて頂くのも信心なのだと。それには真の道にある、いや信心の道にあるのであるから、信心によって頂くところの、教えを踏まなければならないのであるから、「口に真の語りつつ心に真のなき事」といったような不誠意、不実意な事があってはならないと言う事。
今日はとりわけにそういうようなところに一つ焦点を置いてね、腹の立つこともありましょう。ね、痛い痒いの事もございましょうけれども、その時に神様の思いに触れるゆとりが必要である。腹が立ちます。けれどもよくよく思うてみますと、こうしてと言う事になってくる。痛いございます。けれども有り難いというそういうところにですね、焦点を置いていよいよ楽にならせて頂けれる少しでも、ましにならせてもらう楽になる為にそういう精進を一つ続けたいとこう思うですね。
どうぞ